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<title>日本史研究之ブログ</title>
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<description>日本中世史（戦国期）をこよなく愛する漢の研究報告・雑記ブログです。</description>
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<title>秋山虎繁之研究</title>
<description> 今回は、徳川家康に「さても恐ろしきは秋山信友。武田の猛牛に似たる男ぞ」と評された、秋山虎繁について書いてみたいと思います。これまで、秋山信友の名で知られていましたが、近年の研究により、正しくは秋山虎繁であるとされています。（以降、秋山虎繁で統一する）秋山氏は、武田氏の同族で甲斐源氏庶流であると伝えられています。大永７年（１５２７年）に秋山信任の嫡子として誕生し、天文１０年（１５４１年）に元服したと
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<![CDATA[ 今回は、徳川家康に「さても恐ろしきは秋山信友。武田の猛牛に似たる男ぞ」と評された、秋山虎繁について書いてみたいと思います。<br /><br /><br />これまで、秋山信友の名で知られていましたが、近年の研究により、正しくは秋山虎繁であるとされています。（以降、秋山虎繁で統一する）<br /><br /><br />秋山氏は、武田氏の同族で甲斐源氏庶流であると伝えられています。<br /><br />大永７年（１５２７年）に秋山信任の嫡子として誕生し、天文１０年（１５４１年）に元服したといわれています。<br /><br />同年、武田晴信らによる、武田信虎追放クーデターが起こっています。<br /><br />虎繁の名は、武田信虎から「虎」の一字を与えられたと考えられ、クーデター以前に元服を済ませていたと考えられます。<br /><br /><br />初陣は天文１１年（１５４２年）の諏訪攻めで、その後各地で戦功をあげたといいます。秋山虎繁は、天文１６年（１５４７年）の伊那福与城攻略で、敵将の藤沢頼親を捕縛するという大手柄を挙げ、伊那郡代として大島城に在城し、伊那衆を率いると共に、美濃や三河、遠江の情勢監視を務めたといいます。<br /><br />この頃には、２５０騎を預かる大将として、武田軍の中心的人物になっていました。<br /><br /><br />永禄８年（１５６５年）には、織田信長との同盟締結に対して、多くの家臣が異を唱える中、秋山虎繁は織田信長との同盟締結の利を説き、同盟交渉の任を務めました。<br /><br />また、永禄１１年（１５６８年）には、織田信長との更なる同盟強化を図るため、織田信長の嫡子織田信忠と武田信玄四女松姫の婚約成立に尽力し、織田信長の居城岐阜城へ名代として赴き、織田信長は秋山虎繁を手厚くもてなしたといわれています。<br /><br /><br />しかし、永禄１２年（１５６９年）に開始された、武田軍の駿河侵攻の際、伊那衆を率いて遠江へ侵入、徳川家康と一触即発の事態を起こし、これが武田氏と徳川氏の不和の要因となったといいます。<br /><br /><br />元亀３年（１５７２年）に、武田信玄の西上柵背因果開始されると、秋山虎繁は、別働隊およそ３０００を率いて、織田領内の東美濃へと侵攻し、岩村城を陥落させたと伝えられています。<br /><br />しかし、この点について、近年の研究では、秋山虎繁は山県昌景と共に、奥三河へと侵攻し、奥平氏、菅沼氏らを攻略した後、二俣城包囲戦線に加わったとされています。<br /><br /><br />秋山虎繁が東美濃、岩村城へ入城したのは、武田信玄死去後のようで、おそらく長篠・設楽原合戦以前、武田勝頼が東美濃を勢力下に治めた頃であろうかと思われます。<br /><br />この頃には、織田信長との対決は避けられない状況下であり、武勇の誉れ高き秋山虎繁を織田信長勢力下との最前線に配置することで、その侵攻を食い止めようとしたのではないでしょうか。<br /><br /><br />しかしながら、天正３年（１５７５）の長篠・設楽原合戦において、武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、織田信長の嫡子織田信忠率いる東美濃攻略戦の猛攻を受けることとなってしまいました。<br /><br />周辺諸城が陥落する中、奮闘し続けた秋山虎繁でありましたが、織田信長からの和議・助命の申し入れを受諾し、岩村城を開城しました。<br /><br />しかし、織田信長は一方的にこの和議を破棄し、長良川において、夫人の岩村殿（織田信長の叔母）とともに処刑されたといいます。<br /><br /><br />織田信長は、前の城主である遠山景任の正室であった叔母の岩村殿による無血開城（遠山景任は籠城中に病死し、援軍の織田信広、河尻秀隆らが着陣したにも関わらず、秋山虎繁の正室となることで降伏してしまった。）、織田信長５男の御坊丸を武田勝頼への人質として差し出したことに対して、かなりの怒りを持っていたらしく、岩村殿以下、秋山虎繁臣下も処刑に処したと伝えられています。<br /><br /><br />秋山虎繁、享年４９歳、武田家滅亡の７年前の天正３年（１５７５年）のことでありました。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>武田氏関連研究</dc:subject>
<dc:date>2008-07-20T15:07:44+09:00</dc:date>
<dc:creator>しん＠</dc:creator>
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<title>下条氏信之研究</title>
<description> ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。史料や先行研究を参照しながら書いていますが、あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、しん＠個人の見解を記述しています。必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。新たな史料の発見や研究成果等により、私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
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<![CDATA[ ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br /><br />この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。<br /><br />史料や先行研究を参照しながら書いていますが、<br /><br />あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、<br /><br />しん＠個人の見解を記述しています。<br /><br />必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。<br /><br />新たな史料の発見や研究成果等により、<br /><br />私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。<br /><br />＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br /><br /><br />今回は、信濃先方衆の下条信氏について書いてみたいと思います。<br /><br /><br />下条氏は、信濃先方衆とはいえ、元々甲斐国が本拠であるといわれ甲斐国下条の出自ではないかといわれている。<br /><br />甲斐源氏武田氏系図には、武田信成の子、武田信春の弟に下条武春という人物がみられるという。<br /><br />また、円光寺本武田氏系図では、武田信春の子、信満の弟信継に下条殿と注記があるという。<br /><br />いずれにせよ、南北朝時代から室町時代初期にかけて、武田氏の分流として誕生した氏族であろうと考えて差し支えないと思われる。<br /><br /><br />では、下条氏はいつ頃信濃国に入郡したのだろうか。<br /><br />「下条由来記」に拠れば、下条頼氏の頃、応永元年（１３９４）であったという。<br /><br />詳細は分からないが、小笠原氏から養子が入り、信濃国へ入国したといわれている。 後に、信濃守護職に小笠原氏が守護補任されると、同じ甲斐源氏であることから守護小笠原長秀に属した。<br /><br /><br /><br />しかし、小笠原氏の守護補任には、特に北信濃地方の豪族らはこれに対立姿勢を打ち出し、戦乱へと発展していった。<br /><br />守護職小笠原長秀は、下条氏らを率いて、北信濃の豪族、村上氏らを中心とした反守護勢力と戦うも、小笠原長秀は惨敗を喫した。<br /><br />その後については中略するが、下条氏は、小笠原氏の隆衰と運命を共にしていた。<br /><br /><br /><br />さて、下条信氏は享禄２年（１５２９）に誕生したといわれている。<br /><br />父は下条時氏であり、弘治元年（１５５５）に時氏が死去すると、下条氏の家督を継承した。<br /><br />下条信氏は、先代と同様に、信濃国守護小笠原氏に仕えた。<br /><br /><br />甲斐国では、武田信玄が父・武田信虎を追放、家督を相続し、信濃国への侵攻を開始すると、信濃国守護小笠原氏をはじめ、諸豪族らは反武田氏を掲げ、徹底抗戦した。<br /><br />下条信氏は、小笠原氏のもとで反武田勢に加わっていたことが伝えられている。<br /><br />しかし、天文２３年（１５５４）頃、伊那郡が武田信玄に攻略されていく過程において、下条信氏は、小笠原氏を離反し、武田方に従属した。<br /><br /><br />武田方に従属した下条信氏は、秋山虎繁配下に加わり、武田信玄の妹を正室として迎えた。<br /><br />下条信氏は、武田信玄から「信」の字を賜り、信氏と改名したと「武田氏系図」には記されているというが、疑問が残る。<br /><br />「信」の字は、代々武田氏が継承してきた文字であり、他の武将は武田信虎の「虎」や武田信昌の「昌」、武田信縄の「縄」などを賜っている。<br /><br />そのことから考えると、他国衆の下条信氏が「信」の字を与えられるということは不自然に感じるのである。<br /><br /><br />元々、下条氏は武田氏とは同族であることから、特別に「信」の字を与えられたのか。<br /><br />あるいは小笠原氏を離反して武田氏に従属するにあたり、同族意識、忠誠心を表すことを考慮して「信」の字を用いて改名し、その後に武田氏の軍門へ下ったのではないだろうか。<br /><br /><br />武田信玄は、義兄弟となった下条信氏を、重要拠点である伊那郡の知久氏領を与えたという。<br /><br />伊那郡は三河国、遠江国などへの侵攻、警戒の拠点となる重要地点であり、そのため、下条信氏は、来たる西上作戦の素地作りに努めたという。<br /><br />その功労に武田信玄から感状を賜っている。 元亀３年（１５７２）に武田信玄は遠江国、三河国へと侵攻を開始し、徳川家康に大打撃を加え、織田信長にも脅威を与えた。<br /><br /><br />しかし、元亀４年（１５７３）に武田信玄は病没し、武田軍は撤退を余儀なくされてしまった。<br /><br />武田信玄没後は、武田信勝が元服するまでの間、武田勝頼が陣代として統治を任される形となった。<br /><br /><br />武田信玄の死去は秘喪されるはずであったが、瞬く間に他国へと知れ渡ることとなり、これに乗じて、織田信長は抵抗勢力を次々と排他していった。<br /><br />織田信長が畿内方面をほぼ手中にすると、織田信長最大の敵は、武田氏だけとなった。<br /><br />この状況に、武田勝頼は家督相続を宣言し、東美濃や遠江国への侵攻を行い、織田信長や徳川家康に打撃を与えていった。<br /><br /><br />しかし、天正３年（１５７５）、武田勝頼が設楽原において、織田・徳川連合軍に惜敗すると、織田信長は武田氏攻略を徐々に開始していった。<br /><br /><br />天正１０年（１５８２）に、織田信長は嫡子織田信忠を大将とした武田討伐軍を発した。<br /><br />このとき、朝廷には織田信長の影響力が及ぶようになっており、織田信長の依頼により、朝廷は武田勝頼を朝敵とし、織田信長に討伐を命じたのである。<br /><br />不幸にも朝敵とされてしまった武田勝頼は、未完成の新府城を放棄して、行方をくらました。<br /><br />その間、織田信忠の軍勢は信濃国の武田氏拠点を次々と攻略していった。<br /><br /><br />朝敵とみなされた武田勝頼に従うものは少なく、多くの武将達が織田方の軍門へ降ったり、逃亡するなど、徹底抗戦を試みなかった。<br /><br /><br />下条信氏は、武田勝頼の命により、伊那口に陣し、織田信忠の侵攻を食い止めようと努めたが、一族であり下条信氏の弟、下条氏長が織田方に内通する事態となり、下条信氏は逃亡を余儀なくされた。<br /><br /><br />下条信氏は嫡子下条信正とともに三河国へと落ち延びたという。<br /><br />しかし、武田氏滅亡の数ヵ月後、下条信正は病没、さらに下条信氏もまた急死してしまった。<br /><br /><br /><br />信濃国守護小笠原氏を支え、武田氏従属後は伊那口という重要拠点の守備を任された氏族としては、あまりにも悲しい結末であった。<br /><br /><br />なお、織田方に内通した下条氏長から武田遺臣ら人心は離れていき、徳川家康は武田遺臣を取り立てる方針を打ち出したことから、旧臣らは、下条氏長を排他し、下条信氏の子、下条頼安を擁立しようと動いた。徳川家康もこれに同調し、下条氏長を殺害し、下条氏は頼安が相続することとなった。 <br /><br /> ]]>
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<dc:subject>武田氏関連研究</dc:subject>
<dc:date>2008-07-19T19:01:26+09:00</dc:date>
<dc:creator>しん＠</dc:creator>
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<title>武田信清之研究</title>
<description> ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。史料や先行研究を参照しながら書いていますが、あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、しん＠個人の見解を記述しています。必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。新たな史料の発見や研究成果等により、私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
 </description>
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<![CDATA[ ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br /><br /><br />この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。史料や先行研究を参照しながら書いていますが、あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、しん＠個人の見解を記述しています。必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。新たな史料の発見や研究成果等により、私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。<br /><br /><br />＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br /><br /><br /><br />今回の風林火山列伝は、武田信玄の六男あるいは七男といわれる武田信清について書いてみたいと思います。<br /><br />武田信清は、武田信玄と、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む豪族の禰津元直の娘、禰津御寮人の間に生まれたと伝えられている。<br /><br /><br />滋野氏は、真田氏らを輩出した信濃の名族であり、また信濃国小県郡は西上野と隣接していたため、武田氏にとっては重要な場所の一つであったと考えられる。<br /><br /><br />小県郡の禰津氏の娘を側室に迎えることで、滋野氏諸流との関係を深め、信濃国と西上野の境界線の守備を強くしようという意図があったように思われる。<br /><br /><br />信清は、永禄５年（１５６５）に誕生したといわれ、幼名を大勝と称した。その後、信清は永禄１０年（１５７０）に玄龍と称して法善寺に入った。<br /><br /><br />元亀４年（１５７３）に父武田信玄が信濃国駒場で死去し、跡取りを武田勝頼の嫡子武田信勝と定めたが、幼少であったため、信勝が元服するまでの後見人として武田勝頼が指名された。<br /><br /><br />織田信長は、武田信玄死去後に反信長勢力を次々と排除し、その勢力を拡大させていった。天正年間に入ると織田信長の勢力は不動のものとなり、武勇の誉れ高き武田軍をも圧倒する状態となっていった。<br /><br /><br />これに対して、武田勝頼は天正２年（１５７４）に東美濃の織田領内へと侵攻、明智城など１８城もの諸城を陥落させた。<br /><br /><br />織田信長は、嫡子織田信忠と共に東美濃の明智城を援護すべく出陣するも、武田勝頼の東美濃攻略があまりにも早く、織田信長は岐阜へと撤退した。<br /><br /><br />翌天正３年（１５７５）には、前年に徳川家康に寝返った奥平信昌が籠もる長篠城攻めを開始した。しかし、長篠城方の善戦に遭い、また、織田信長・徳川家康連合軍が援軍として設楽原へと着陣、長篠城の押さえであった鳶ノ巣砦が連合軍の酒井忠次隊の急襲に遭って壊滅し、退路を絶たれた武田軍は、連合軍との一戦に打って出た。<br /><br /><br />この長篠・設楽原合戦で、武田軍は多くの諸将を失うこととなり、武田家の末路を暗示する結果となった。（しかしながら、多くの諸将を失った武田氏ではあったが、滅亡まで７年間持ちこたえ、また関東（上野国）戦線では北条氏、上杉氏よりも優位に進めていた。）<br /><br /><br /><br />その後、武田信清は武田勝頼の命により、甲斐源氏の名門であり、甲斐源氏の中心的存在であった安田氏の名跡を再興する形で還俗し、安田信清と名乗り、武田勝頼を支えることとなった。<br /><br /><br />還俗した安田信清の動向ははっきりしていない。<br /><br /><br />一説によれば、還俗した後、信濃国海野城主となったという。禰津氏との血縁関係を考慮すれば、海野城主へ入城したことは推測できる。<br /><br /><br />西上野を統治下に治め、上野国の支配を北条氏、上杉氏と争い続けた武田氏は、その西上野最前線に滋野氏諸流の真田昌幸らを配置し、その後方拠点に武田氏と滋野氏の血縁を持つ安田信清を配置し、上野国を巡る戦いに備えていたのではないだろうか。<br /><br /><br />さて、信清が還俗したのと時同じくして、義母姉の菊姫が上杉景勝のもとへと嫁いだ。これにより、甲越同盟が成立した。<br /><br /><br />菊姫は、武田信玄の側室油川御寮人の娘として誕生したという。上杉景勝のもとで「甲斐御前」として丁重に扱われたが、子宝には恵まれなかったという。<br /><br /><br /><br />天正１０年（１５８２）に、武田討伐に屈した武田勝頼・信勝父子が田野の地で自害すると、織田方によって武田遺臣の厳しい詮索が行われた。<br /><br /><br />武田氏親族衆の多くは織田軍に捕らえられて処罰、あるいは武田遺臣討伐により自害したが、安田信清は追討を逃れて高野山へと逃れた。<br /><br /><br />武田氏が滅亡した同年、本能寺において明智光秀の謀叛が起こり、織田信長が自害すると、織田政権は脆くも崩壊した。安田信清は、信長亡き後の覇権争いの混乱に乗じて義母姉菊姫を頼って越後へと赴き、上杉景勝に出仕した。<br /><br /><br />武田勝頼と同盟を結んでいた上杉景勝は、義弟の安田信清を一門衆として迎え入れ、信清はこれを機に安田姓から武田姓へと改めた。<br /><br /><br />慶長３年（１５９８）、上杉景勝が五大老となり、会津１２０万石に加封されると、武田信清は３０００石余りを賜ったという。<br /><br /><br />しかし慶長６年（１６０１）に、領内諸城の補修を発端とした、徳川家康による会津討伐、その後の関ヶ原合戦において西軍へ与したことにより、上杉景勝は米沢３０万石へと減移封となった。<br /><br /><br />主家の石高減封に伴い、武田信清が賜った石高は１０００石余りと減少した。この石高減少は主家の減封に伴うものであり、武田信清は上杉家を主家として忠義を尽くしてその生涯を過ごし、寛永１９年（１６４２）、８０歳という長寿を全うして没した。<br /><br /><br />墓は米沢市にある林泉寺にあり、法名は虎山玄龍居士であるという。<br /><br /><br />武田信清の跡目は、嫡子武田勝信が継ぎ、上杉一門衆として、明治維新まで米沢武田氏として存続し続けた。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>武田氏関連研究</dc:subject>
<dc:date>2008-07-18T18:03:37+09:00</dc:date>
<dc:creator>しん＠</dc:creator>
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<title>葛山信貞之研究</title>
<description> ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。史料や先行研究を参照しながら書いていますが、あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、しん＠個人の見解を記述しています。必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。新たな史料の発見や研究成果等により、私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
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<![CDATA[ ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ <br /><br />この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足<br /><br />のために書いています。<br /><br />史料や先行研究を参照しながら書いていますが、<br /><br />あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、<br /><br />しん＠個人の見解を記述しています。<br /><br />必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。<br /><br />新たな史料の発見や研究成果等により、<br /><br />私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。 <br /><br />＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ <br /><br /><br /><br /><br />今回は、武田信玄の六男で、武田氏支流の油川氏の娘との間に誕生した、葛山信貞を取り上げたいと思います。<br /><br /><br /><br />油川氏は、武田信玄の祖父にあたる武田信縄の代に、家督をめぐって武田信縄と対立した油川信恵を祖とする武田氏支流である。<br /><br />武田信縄との対立後、一旦は反発の矛を収めたものの、武田信縄の死去に伴って武田信直（後の武田信虎）が家督相続すると、再び叛乱を起こした。<br /><br />油川信恵は勝山城に篭って武田信直に対抗するも、城は落城して討伐された。<br /><br /><br /><br />油川夫人は、油川信恵の子、油川信守の娘であるという。 <br /><br />葛山信貞の生年は定かではないものの、およそ永禄２年（１５５９）以前の出生であると推定されている。<br /><br />葛山信貞の兄弟姉妹には、仁科盛信、織田信忠との婚約が破談後に出家して信松尼と名乗った松姫、上杉景勝の正室となった菊姫がいる。 <br /><br /><br />武田信玄が、おおよそ信濃国を平定し、侵攻の矛先を当時同盟関係にあった今川氏の駿河国へ向け、侵攻を開始すると、駿東郡領主であった葛山氏元は、主家今川氏からいち早く離反し、武田方へと寝返った。<br /><br />しかしながら、葛山氏元は駿河国今川氏に属していたとはいえ、武田氏との関係も深かったといわれており、武田氏における小山田氏や穴山氏のような郡主として、主家とは独立した形での支配を行っていたのではないかと思われる。 <br /><br /><br />その駿東郡へ、今川氏と同盟関係にあった相模北条氏が今川氏救援のため出兵すると、駿東郡は北条領となってしまった。<br /><br />葛山氏元は、武田氏に内応後、人質として娘を差し出したといわれており、その娘が後に葛山信貞の正室として迎えられたという。 <br /><br /><br />３年後の元亀２年（１５７１）に、武田信玄は駿東郡へと出兵し、駿東郡の要城・深沢城を奪還して駿東郡を回復、さらに甲相同盟が復活したことから、駿東郡の統治は安定した。<br /><br /><br />元亀３年（１５７２）には、武田信玄の発給文書が確認されていることから、この頃から駿東郡は武田氏支配となったと判断できる。 <br /><br />時期は明らかではないものの、おそらく、元亀３年（１５７２）頃に武田信玄は、実子の義久（葛山信貞の幼名）を、駿東郡葛山氏を継承させて、葛山信貞と名乗らせ、その支配に当たらせた。<br /><br />その際、葛山氏の継承とともに、葛山氏元の娘を正室として迎えた。<br /><br /><br />これは氏元の娘が葛山氏存続を武田信玄に願い出たことによるといわれている。<br /><br /><br />しかし、武田信玄が、家名存続の願い出のみで、実子を養子という形で差し出すとは考えづらい。 <br /><br /><br />武田信玄は、実子を占拠した当地の名跡を継承させて支配させる例があり、信濃諏訪郡の諏訪氏を諏訪勝頼、信濃安曇郡の仁科氏を仁科盛信らが挙げられる。<br /><br />この手法は当地の反武田氏勢力を懐柔させて、武田支配政策を円滑に進める目的があった。<br /><br />おそらく、葛山氏を継承した信貞も同様に、武田信玄の支配政策方針があったと考えられる。 <br /><br /><br />葛山信貞が葛山領へと赴き、支配政務を行ったのかについては疑問がもたれている。<br /><br />葛山信貞は、元亀３年頃は１０代前半から半ばであったのではないかと推測され、幼少のためか、葛山氏の一族の御宿友綱が葛山信貞の陣代に任ぜられたという。<br /><br /><br />御宿友綱は武田氏家臣跡部泰忠の妹を母としているため、武田氏との関係も深く、武田信玄の侍医を務めたともいわれている人物である。 <br /><br />現地には、武田信玄や武田勝頼、御宿友綱の文書が見られるというから、葛山領における政務については、郡内、河内、諏訪などで行われた分郡領主制というよりは、武田信玄および武田勝頼による直接支配、その政務を代行したのが御宿友綱であったのではないかと考えられている。<br /><br /><br />では、葛山信貞はどこに所在していたのか。<br /><br />推測するに、駿東郡が武田氏支配下に組み込まれた頃は、葛山信貞は元服前であった、あるいは、葛山信貞は病弱であり、甲斐国に留まっていたと考えられる。<br /><br />そのため、甲斐国に在住し、現地に赴き政務を行ったのが葛山氏一族の流れを汲む御宿友綱であったのだろうと考えられるのである。 <br /><br /><br />葛山信貞は、甲陽軍鑑にみえる、武田信玄家臣団編成によれば、御親類衆に名を連ね、１２０騎を預かっていたという。<br /><br />戦線での目立った活躍は伝えられていないが、御親類衆の上位に位置していたと思われる。<br /><br />それは、天正４年（１５７６）に行われた、武田信玄の葬儀から推測することができる。<br /><br />武田信玄の葬儀では、葛山信貞は喪主武田勝頼、仁科盛信に次いで三番目に列し、位牌を持ったと伝えられている。 <br /><br /><br />その後、対織田信長・徳川家康との戦線や、対後北条氏政との戦線でどのような働き、どのような行動をとっていたのか、葛山信貞のその動向は定かではないものの、天正１０年（１５８２）、織田信忠率いる武田討伐に際して、身を隠していた甲府善光寺で自害したとも、処刑されたとも伝えられている。 <br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>武田氏関連研究</dc:subject>
<dc:date>2008-07-17T18:02:38+09:00</dc:date>
<dc:creator>しん＠</dc:creator>
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<title>駒井昌直之研究</title>
<description> ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。史料や先行研究を参照しながら書いていますが、あくまでも史料や先行研究を基礎としたうえで、しん＠の個人的見解を記述しています。必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。新たな史料の発見や研究成果等により、私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
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<![CDATA[ ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br /><br /><br /><br />この連載は、しん＠の自主研究、いわば自己満足のために書いています。<br /><br />史料や先行研究を参照しながら書いていますが、あくまでも史料や先行研究を<br /><br />基礎としたうえで、しん＠の個人的見解を記述しています。<br /><br />必ずしも正しい歴史事実とは限らないことを先に述べておきます。<br /><br />新たな史料の発見や研究成果等により、私の見解も変わっていくことを予めご承知ください。<br /><br /><br /><br />＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br /><br /><br />今回は、今回は、「甲陽軍鑑」の「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」において御譜代家老衆に名のみえる、駒井昌直について書いてみたいと思います。<br /><br /><br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br /><br /><br /><br />駒井昌直は、武田信虎、武田信玄の初期軍政下で多くの取次を務め、「高白斎記」（別名：甲陽日記）の著者として有名な駒井高白斎の嫡子であるといわれている。<br /><br />駒井高白斎は、文武に優れた武将であり、「妙法寺記」によれば、天文１１年（１５４２）に信濃国諏訪氏の分流である藤沢頼親が籠る信濃国伊那郡藤沢城を陥落させたという。<br /><br />また、「高白斎記」には、天文１６年（１５４７）に、甲州法度次第の起草を行い、武田信玄に提出したと書き記されている。そのため、武田軍政下において武田信虎、武田信玄の側近であったと考えられる。<br /><br /><br /><br /><br />駒井昌直の生まれは、天文１１年（１５４２）であると伝えられている。この頃の武田氏は、武田信玄及び武田氏家老衆らによる武田信虎を追放した翌年にあたり、武田信玄（当時は晴信）が信濃国へ本格的な侵攻を開始した時代にあたる。<br /><br /><br /><br /><br />「甲斐国志」によると、「士隊長騎馬五十五外ニ在郷近習五十騎ノ頭也」であったという。<br /><br />推察するに、駒井高白斎の被官らを継承したと思われる。<br /><br />しかし、駒井高白斎の死期は明らかではなく、いつ駒井氏を継承したのかはっきりしない。<br /><br />「高白斎記」は、天文２２年（１５５３）の武田信玄嫡子の武田義信名乗祝儀までの記述までであり、これを以って駒井高白斎の死期とするのか、後世の武田義信廃嫡事件により、同時期以降の記録が破棄されたのか、いずれにしても根拠となる史料がなく、推測の域を脱しない。<br /><br /><br /><br /><br />駒井昌直の活動が明確になるのは、元亀年間に入ってからのことである。<br /><br />「甲斐国志」には、「駿州深澤ノ城代即チ小田原ノ押ナリ」とあり、駒井昌直が相模国北条氏の押さえとして、深沢城代として入城したことが分かる。<br /><br /><br /><br /><br />永禄１１年（１５６８）に、武田信玄の駿河国へ侵攻し、武田・今川・北条による三国同盟は崩壊した。<br /><br />武田信玄が駿府を手中にし、今川氏真を追い落とすと、武田信玄、北条氏康は交戦状態に突入した。<br /><br />武田信玄は駿河国へ侵攻し、今川氏当主、今川氏真を追って今川旧領の掌握に成功すると、駿河国深沢城に駒井昌直を在城させた。<br /><br />しかし、元亀元年（１５７０）に北条氏康は４万にも及ぶ大軍を率いて深沢城を攻略し、これを落城させた。<br /><br />これに対して武田信玄は、北条綱成を守将とする深沢城を奪還すべく軍を発して深沢城を包囲し、元亀２年（１５７１）に武田軍は金堀衆を投入して深沢城を掘り崩しにかかったため、北条綱成は後方の玉縄城へと退却した。<br /><br />その後、北条氏は深沢城の攻略を試みるも失敗し、武田信玄は再び駒井昌直を城代として配置し、北条氏に対する監視の目を光らせた。<br /><br /><br /><br /><br />深沢城は、今川氏親の命によって築かれたといわれている。<br /><br />時期は定かではないものの、１６世紀初頭に今川氏親は北条氏らとともに度々甲斐国へ侵攻していることから、甲斐国に対する拠点、言い換えれば甲斐国、駿河国、相模国国境の防衛拠点・前線基地として位置づけられたと思われる。<br /><br />そのため、今川氏真が駿河国を追われると、武田領、北条領の国境にあたる深沢城は両氏の間で激しい攻防戦が繰り広げられることとなったのである。<br /><br /><br /><br /><br />駒井昌直の発給文書は、竜朱印状の奉書が２点確認されているという。<br /><br />奉書とは、高位者がその意思や命令などを特定した人物に伝える際に、家臣らに一度その内容を口頭などによって申し伝え、家臣が自己の名義でその内容を記した文書を作成して伝達対象者である特定した人物に対して発給する文書を指す。<br /><br />これらは元亀元年（１５７０）から天正２年（１５７４）にかけて発給されたものであり、駒井昌直が、武田信玄、武田勝頼から深沢城周辺支配に対して指示を受けていることが分かる。<br /><br />つまり当地の実質的な支配執行者の立場であったと考えられる。<br /><br />大名直轄の城の管理・政務・防衛を実行する立場、即ち城代としての位置づけであったといえるのではないだろうか。<br /><br /><br /><br /><br />天正１０年（１５８２）３月、武田勝頼が討たれ、戦国大名武田氏が滅亡すると、武田旧領は織田支配となった。<br /><br />しかし、同年に本能寺で織田信長が明智光秀によって討たれると、織田家中は大混乱となり、甲斐国を支配していた河尻秀隆は、武田遺臣や領民によって謀殺されてしまった。<br /><br />無支配状態となった武田旧領を巡って、徳川家康、北条氏政が覇権を争うようになった。天正壬午の乱である。<br /><br />この争いを優位に進めたのは徳川家康であった。<br /><br />徳川家康は、武田家の遺臣を大量に招き入れたのである。<br /><br />それも、高待遇（譜代家臣並み）での召し抱えという条件もつけたという。<br /><br />この際、主家・武田家滅亡後、生き道を失っていた駒井昌直は、御槍奉行衆であった今福昌常や足軽大将衆の曽根昌世らとともに、武田遺臣の中心人物として条件を受けることで徳川家康に起請文を提出し属することとなった。<br /><br />これにより、武田遺臣９００名にも及ぶ遺臣団が徳川家康配下となり、徳川家康の天下統一の一助となっていった。<br /><br /><br /><br /><br />駒井昌直は、徳川家康に仕えると、徳川家家中でも武勇の誉れ高き榊原康政に附されたという。<br /><br />そして、文禄４年（１５９５）に４３歳の若さで病没した。 <br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>武田氏関連研究</dc:subject>
<dc:date>2008-07-16T18:57:02+09:00</dc:date>
<dc:creator>しん＠</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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